2011年10月26日

不十分なコレラ対策で未だ脅かされるハイチの人々の命

不十分なコレラ対策で未だ脅かされるハイチの人々の命

情報源:MSF(国境なき医師団)
日付:2011年10月19日

ポルトー・フランス

ハイチで伝染病コレラが発生してから一年がたちますが、ハイチの多くの地域の人々は今なおコレラの脅威に晒されています。ヘルスケアサービスやコレラ蔓延を防ぐ手立てはいまだ確立していないと、国境なき医師団は警告しています。

ハイチ救援における国境なき医師団のリーダーであるRomain Gitenet氏は「ハイチ当局や国際援助関係者はコレラを治療し蔓延を防ぐためにさらなる行動を起こす必要がある」と述べています。「早急にヘルスケアを改善し、清潔な水を手に入れる術を提供し、適切な衛生環境を保証する必要があります。清潔な水や適切な衛生環境はコレラの蔓延を止めるために必要不可欠です。」

「国際社会がハイチを支援するために多額の金銭を寄付しているにもかかわらず、未だに毎週何千人ものハイチの人がコレラにかかり、また多くの人が亡くなっています。」

ハイチの厚生省によると、2010年10月に最初のコレラの患者が確認されて以来、46万5千人ものハイチの人々がコレラにかかり、6500人以上の人々が亡くなっているそうです。雨期が続いており、病気の蔓延を助長しています。

また、国境なき医師団は、ヘルスケアや水、公衆衛生に携わる国際組織がコレラと戦っているハイチから撤退する姿を目撃しています。しかし、依然として支援が重要な状況であり、緊急事態のままです。引き続き危険な状況であり、コレラの発生数も予測不能なほどに不安定な状態です。例をあげると、国境なき医師団は8月の第4週に281人の患者をポルトー・プランスで治療しているが、これが9月になると週当たり840人に劇的に増加しています。

ハイチでは今後何年にもわたってコレラは存在し続けるでしょう。最終的に、ハイチ当局がコレラ蔓延への対策の責任をとる必要があります。しかし、ハイチ当局はまだ全国的に有効な対策を打つことができていません。

国際援助関係者はコレラに対するケアへの緊急ニーズを十分に満たしつつ、ハイチ政府が迅速に医療施設に適切なコレラ治療を結びつけることや、予防計画を実施することへの支援をもっとするべきです。国境なき医師団は、国際援助関係者がサポートしているヘルスケア施設の管理業務を厚生省に移すために働きかけています。

同時に、あくまで焦点はハイチの人々の命を救うことに他なりません。Gitenet氏は「僻地では近くに経口再水和ポイントや治療施設がなかったり、ヘルスケア職員や福祉従事団体の職員を訓練することがされていなかったりするために、コレラ患者は脱水症状により死に続ける。これは容認しがたいことである。」と述べています。

コレラ及び感染症に対しての国境なき医師団の反応によると、コレラは主に汚染された水と食物、または人と人の接触を通して拡散する伝染病です。それは短期間で人を死に至らしめるものですが、もし適切な治療ができれば、対処するのは簡単です。さらに、清潔な水や定期的に手を洗う習慣、衛生的な食物の取扱いをすることで予防することも簡単です。しかし、農村地域や都市部のスラム街に住むハイチの人々の大多数は飲料用として適した水や適切な衛生環境、下水処理施設を利用することができません。

2010年の10月にコレラの流行が始まって以来、国境なき医師団は16万人ものコレラの患者を治療してきました。それは全国規模で報告されているものの35%になります。現在、国境なき医師団はポルトー・プランスのMartissant、カルフール、デルマ、Choscal、Drouilardの近隣、及び、Ouest、ノール、Artiboniteの一部でコレラの対策に努めています。


原文URL http://reliefweb.int/node/453867
posted by CODE at 14:56| アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月10日

ハイチ 増え続ける患者、減少する死者数 PAHO/WHOトップ 活動の増援を呼び掛ける

日付:2010年12月2日
情報元:Pan American Health Organization ;World Health Organization

ワシントンD.C  PAHO

ハイチではコレラ患者数が増え続けているが、コレラに罹る患者のうち死亡する者の割合は現在、減少していると今週発表された情報は伝えている。
10月下旬、コレラが流行りだした初めの数週間、亡くなる入院患者の割合は9パーセントと高いものだった。それがハイチ保健省の最新の報告では3.5パーセントに下がっている。

「向上しているのだよ。」全米保健機構/世界保健機関(以下PAHO/WHOと省略)の副次官Jon K. Andrus医師はこう語った。「依然、多くの人々が亡くなり、我々も多くの問題を抱えている。けれどハイチの医師たち、看護師たち、また地域のスタッフや各国の支援者たちの頑張りで多くの命が救われているのも現実なのだ。」

今週発表された情報によると10月下旬からコレラにかかって1800人以上が亡くなり、ハイチの全10県で少なくとも八万人が罹患している。しかし、Andrusと他の公衆衛生の専門家たちは発表された数は、事例報告の際の誤差のため実際のコレラ患者の数よりはるかに少なく見積もられていると考えている。

PAHO/WHOそれに米国疾病対策管理センター(CDC)が計画立案のため行う疫病モデリングでは初めの12ヶ月間でおよそ40万人の患者を、その半数ほどはコレラが流行る最初の三カ月に発生すると予想している。

Andrus医師はこうしたことから、取組みを拡大しなければと言う。「今やハイチにはコレラが蔓延し、現場はさらに患者が増える事を予想しておかなければならない状況なのだ。」

「今、ハイチでの一番の課題は今後数週間の対応を拡大することだ。特に、間もなくやってくる休暇シーズンには外部からの支援や補給諸々を集めるのが難しくなる。」
ハイチ保健省がPAHO/WHOや国連諸機関のサポートを受けて作成した支援拡大計画はコレラ治療センターを増設し、大衆教育を行い塩素錠剤や経口補水塩を支給することで家庭や地域レベルでのコレラ予防と治療を推進する取組みの拡大することを提案している。

この取組みだけでもさらに医師350人、看護師2000人、サポートスタッフ2200人がむこう三カ月、およそ三万人の地域医療従事者やボランティアスタッフへの訓練や追加の経口補水塩に浄水用錠剤の供給が必要となるだろう。Andrus医師は必要なものは進展し続ける状況次第で変わりうることを指摘していた。

その他に差し迫って必要なものとしては水分補給用点滴、抗生物質、塩素、遺体袋、個人用保護具、水袋や貯水タンク、コレラ用ベッド(訳者注:コレラ患者がトイレに行かず用を足せるように穴が空けられたベッド)にトイレ設置用建材などがある。

ハイチにおけるコレラによる影響は極めて深刻なもので、Andrus医師や他の専門家たちは大部分の人々が浄水や公衆衛生を簡単に手に入れられずにきたこと、これまでコレラという病気にさらされた経験が無く自然免疫を持ち合わせていないこと、効果的な治療が受けられる間に治療施設へ患者を連れていく事が困難なことが原因だと指摘している。

Andrus医師は「多くの患者が手遅れの状態で病院、診療所にやって来ていた。医療施設の数を増やし、人々に初期治療の必要性を教えた結果、死者の割合が減少してきたのだ。」と話した。「コレラが蔓延しているまっただ中では、最初に軟便に気づいたら経口補水塩を摂取し始めなければならないんだと知っている必要がある。そうすればもっと多くの命を救う事ができる。」

PAHO/WHOと国際社会はハイチの保健省が行う市民へのコレラ予防と処置の教育や、避難所に一般家庭、市場や学校、診療所、拘置所などの公衆の場の衛生状態改善への取り組みを支援してきた。こうした活動を拡大するため、PAHO/WHOは直ちに1000人の地域環境スタッフを採用することを提案した。

Andrus医師はまた、清潔な飲み水を確保する手段の拡大と廃棄物処理の改善が如何に重要であるかについても説いた。「PAHO/WHOはパートナーと共に水質の観測と水の確保手段の拡大のため活動しつづける。が、ハイチが資金調達し大規模な給水・下水処理施設を建設することは不可欠なことだ。」と言っていた。

文責:Sonia M.Mey Media/Press Knowledge Management and Communication PAHO/WHO

原文URL:ewliefweb.int


翻訳:M.S
posted by CODE at 00:00| 中・南アメリカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月08日

ハイチにおける水の恐怖

情報源:International Medical Corps(IMC)
日付:2010/11/8

Crystal Wells広報官より
レオガン、ハイチ−Thelervilts(人名)は質素ではあるが快適な家を海辺に持っていた。1月12日にマグニチュード7.0の地震がおきて彼の家はコンクリートの骨組みと鉄筋だけに破壊されてしまった。彼は廃材を集めて新しい店を一から建て直し、防水シートと木で家を修理した。

9ヶ月経った今、彼の壊れた家はまたもや破壊されてしまった。今回は11月5日と6日に島を打ちのめしたハリケーン・トーマスのもたらした洪水によってだった。今では泥が家の床を覆い、ギザギザになった踏み石だけが濁った水のなかで彼の家への道を点々と指していた。

彼は角にある泥のついたいくつもの土嚢を指し示して言った。「私は家を守ろうとしたが、水が土嚢を流してしまった。」

私はThelerviltsにレオガン(地名)の半分がほとんど水浸しになった日のちょうど翌日に会った。1月の地震の震源地だったレオガンはハリケーン・トーマスでも最もひどく被災した地域だった。地元の病院は避難しなければならず、2,000人の人たちがより高い場所へ移らなければならなかった。Thelerviltsとその妻子が住むレオガンの小さな町のCadaではIMCの緊急対応チームが土曜日(6日)に訪れた時でも洪水の水はいまだにひいていなかった。住民達は膝の高さまでの水の中を歩き、低木の茂みに持ち物を掛けて乾かしていた。

「私は幸運だった。隣人の多くはベッドを出たら水の中に足を突っ込むことになっていたのだ。」とThelerviltsは言った。

ハリケーン・トーマスの直後に、IMCはレオガンのCadaやひどい被害を受けたポルトープランス、Nippes, Petit Goaveなどの他の場所へ医療、栄養、水、公衆衛生の専門家からなる調査チームを送った。チームは衛生キットや毛布を配給し、コレラのような水による病気の発生を防ぐためには、水に浸かった地域に持ち運びのできる水と汚物の処理設備がとても必要であると確認した。

水についてはThelerviltsも一番心配している。「誰かに洪水を止めてもらいたい。私がやりたいけど私にはその手だてがない。」

北部でコレラの発生が猛威を振るっていることがThelerviltsの心配の理由である。コレラが最初に発生し始めたArtiboniteでトーマスの後にコレラが急増していたのだ。Gonaivesの Robateau病院へ住民達は治療を求めて殺到しており、さらにPort au Paix近くの北西部では今新たな発生が報告されていた。最近の患者急増がハリケーントーマスと直接関連しているかどうかは結び付けにくいが、洪水と嵐の後の肉体的なダメージは対応を困難にしている。多くの地域ではよりアクセスが不便になり、洪水によって食料や水源が汚染された可能性がある。

IMCはハイチのコレラの新たな発生への対応を続けている。コレラ対応チームがRobateau病院を支援するためコレラ対策センター(CTC)を立ち上げ、北西部の発生にも対応を展開している。Gonaivesの新しいCTCは最初の発生が伝えられてから7番目のCTCになる。トーマスの後、IMCのコレラ対応チームは川を渡って、コレラ患者へ薬や生活必需品を運んだ。

Thelerviltsがレオガンで恐れているのは、水が病気を拡大させることだ。彼は小さな子供が泥でできた島に座っているのを指して言った。「あの赤ちゃんを見てください。ここではみんなが水によってひどい病気になってしまうと思う。」

Thelerviltsは、自分の家族は自分の店で売っているボトル入りの水しか飲まないと断言した。しかしすべての人がボトル入りの水だけを飲むという手だてを持っているわけではなく、Cadaや、レオガンなど他の水に浸かった地域の多くではほとんど皆、風呂や料理や洗濯に、おそらく今は汚染されているであろういつもの水源を使うしかない。まるで彼の心配を裏付けるかのように、1人の男が水の中を歩いてThelerviltsの家のすぐ近くの井戸にやってきて、茶色の水の中にバケツを入れて水を汲んだ。その水をどうするのかと聞いたら、彼は「風呂だ」と答えた。


原文URL:reliefweb.int

posted by CODE at 00:00| 中・南アメリカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月04日

インドネシア状況レポート 

情報源:Presbyterian Disaster Assistance(PDA)
※米国ケンタッキー州に本部を置くキリスト教系支援団体
日付:2010/11/4

2010年11月3日ムラピ山が再び噴火し、巨大な灰の雲が空に噴出した。インドネシアのジャワ中部地域で10月25日に始まったムラピ山の噴火では約7万人の人々が避難していた。

複数の国連機関の調査によると、国内避難者(IPDS)は75のキャンプに広がり、そのうちの9つが山から25q以内にあるジョグジャカルタ市内にある。5万人以上の人々が暮らしている残りのキャンプはジャワ中部から遠く離れたところにある。

全般的に見れば、政府の火山早期警戒システムはうまく機能しているように思われると、国連人道問題調整事務所(OCHA)の指揮官代理のKnarik Kamalyanは言った。

建物への被害は少なく、病院や食料マーケットは機能していると調査では示されたが、つい最近の噴火によって新たに38名の死者が記録され、28名のけが人が確認された。

PDAが支援しているACT AllianceのパートナーであるYakkum Emergency Unit(YEU)は、噴火被害にあった人々への医療支援を提供している。YEUと他のACT Allianceのパートナーはムラピ山の更なる変化をモニターして、人々が噴火の熱、ほこり、溶岩などから逃れられる避難所を建設している。

地震と津波
嵐と高波はいまだに津波に対する救援の妨げとなっている。PDAのパートナーでACT Allianceの共同メンバーであるChurch World Service(CWS)はパダンから津波に襲われたパガイ島まで13時間かけてボートに乗っていったが、それは普段の2倍以上の時間がかかるものだった。CWSは南パガイと北パガイの最も被害の大きい地域に最初に到着した組織だった。

先週インドネシアのムンタワイ諸島を危機が襲ってきた時には、十代の若者達が救援にやってきた。
最初の波はひざの高さだった。次に来た波と比べればそれは水の滴り程度のものだった。2番目の波は1.5mに急上昇した。3番目の波は3〜4mの間の高さの巨大な壁となり、少なくとも450人の死者を出した。

父親が「津波だ」と叫んだ時、高校教師であるYeniはどうしたらいいかわかっていた。2008年、彼女はインドネシアのムンタワイ諸島のシカカップという町でどのように災害に備えるかを生徒達に教えていた。6ヶ月間にわたり、もし最悪の事態が起こった時必要となるであろう応急処置と捜索・救援技術の訓練を彼女は行った。地震と津波が起きたとき、ムンタワイのプロテスタントキリスト教教会中学校の生徒達は、周囲の混沌と恐怖を気に留めることなく、彼女の教えたことをそのまま実行に移した。

津波の翌日、生徒のHerlina, Deformalis, Parluhutanは管理事務所の指揮所に行き、Yeniと仲間のBerniとの間で調整を行った。三人の生徒達は住民を助けて家から瓦礫を取り除き、一時避難所へ移る手助けをした。

次の日、三人の生徒達はパダン市から来ていた捜索・救援隊を手伝って人々を町から高い所へ避難させた。翌日早くにはBeubukku村から住民を移動させた。それからも人々をより高い場所や避難所へ連れて行く活動をずっとしている。

PDAの地元のパートナーであるACT AllianceのメンバーのYayasan Tanggul Bencana di Indonesia(YTBI)によって行われたプログラムへの称賛の声が、はるばるパキスタンからも届いた。イスラマバードのLaksmita Novieraは、ムンタワイ学校トレーニングプログラムの元プログラムリーダーである。彼女は生徒達が活動しているところを写した写真を見たとき、「彼らに何が起きたのかを想像したら身震いがします。私達の活動が本当に役に立ったことを神に感謝します。」と言った。

PDAの地元のパートナーやACT Allianceのメンバーによる他の救援活動としては、ムンタワイ諸島への移動医療サービスの提供や、救急医や看護士の配置、地域の保健所や教会の避難、食料のパック、ベビーフードのパック、プラスチックシート、毛布、プラスチック合羽、生理用品や下着などの配給などがある。赤ちゃんへの愛情キットというCWSからの物資も配った。

これらの情報はYTBI, IRIN, ACT Alliance, CWSから得たものである。

原文URL:reliefweb.int

posted by CODE at 00:00| アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月27日

ハイチ、強烈なハリケーン直後の救援活動

日付:2010年9月27日
情報源:国連児童基金(UNICEF)

ハイチ、ポルトープランス。
激しい暴風が9月24日にハイチを通過し、こども3人を含む5人の犠牲者と多数の負傷者が出た。
1月に起きた地震被災者が住む避難所に設置された数千もの仮設住居がぼろぼろに切り裂かれ、鉄砲水に押し流されて、ハイチ人の生活にさらに壊滅的な影響を及ぼした。

迅速な対応
暴風による被害に対してユニセフは素早く行動を起こし、毛布やテントに医療キットを配給した。
およそ二千世帯が暮らすCarraduexの避難所で夫や3人のこどもたちと生活する34歳の母親、Caroline Noelは「ここの状況はとてもひどいですよ。」と語った。
Noel夫人はユニセフが配給する毛布を求めて、暴風の被害を受けた人々であふれる3列のうち1列に並んでいた。
「地震の後何もかも失ってしまって、避難所へ移る他なかったの。」そう思い出しながら語るNoel夫人は4月に他の避難所からCarraduex避難所へ移ってきた。「もうすでに地震で全てを失ったというのに、また何もかも無くなっちゃったの」。
ボロボロになった首都にある他のキャンプ同様にCarradeux避難所も今や光景の一部となっている。人々は椅子や、8カ月間住居としていたテントの残骸脇の地面に座り込んでいた。

第二の悲劇
テントが無くなってしまって、夫人は少なくとも家族のため代わりの住居を早急に探さねばならない。ノエル一家は一時的に、既に6人の人々が暮らす近所の小さなテントで共同生活を送っている。
避難所の生活環境は暴風の前でさえ厳しかった。「十分な食べ物が無くて、それでもなんとかこどもたちに食べさせていかないといけないの。ありがたい事に助けてくれる友人も家族もいるわ。」とノエル夫人は話してくれた。
ポルトープランスのPetionville Golfキャンプにある避難所診療所では、暴風で壊れる前は、外来医療サービスを週に約1200人の患者に提供していた。ユニセフは診療所を再建し、医療キットを配給している。
「今回、初めてユニセフとともに活動していますが、医療サービスを復旧するに際の彼らの能率的な支援に感銘を受けました。」そう語ったのは避難所を運営するJenkins-Penn Haitian Relief Organizationの地域部長、Alastair Lamb氏である。


まだまだ残る課題
ユニセフは、72平方メートルのテントを2セットと6つのレクリエーションキットをパートナーであるAmerican Refugee CommitteeがTerrain Acraで運営する避難所にも送っている。ポルトープランスでは一万枚の毛布、1350個の医療キット、400世帯分のテントそれに多くの蚊帳やバケツが配給された。
「ほんの半時間の暴風雨でこのようなことになったのです。」とCarradeuxを訪れたユニセフのハイチ代表、Francoise Grullos-Ackermanは話す。
彼女は「このことからユニセフは予防と災害リスクの削減にあらゆるパートナーの方々と取り組む必要がある事が明確となった。」と付け加え、「ハリケーンの季節が今も近づいています、ですから私たちはともに全力でここにいる人々をもっと頑丈な建物に移すようあらゆる努力をせねばなりません。こどもたちの中には9カ月の間に二度、家族や親類を失った者もおります。とてもショックな事です。」

原文URL:reliefweb.int


posted by CODE at 00:00| 中・南アメリカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月21日

ハイチ復興への長い道のり

情報源:CWS(Chris Herlinger)
日付:2010/7/28

コミュニティを基盤としたグループのメンバーは、1 月12日の地震によって住むところがなくなった人々への食料支援のプログラムをハイチの北部で始めた。南部の海沿いの町Jacmelでは被災者のグループが結束して地元の教会の敷地へ移っていった。そしてポルトープランスでは地震の12日後男子を出産した女性がこれからどうしたらいいのか悩んでいた。

これらの人たちは私が地震の直後1月と2月に出会ったハイチの人々である。そして私が最近ハイチへ戻った時、彼らを探そうとすることと数ヶ月の間でどれくらい多くのことがハイチにおいて変化したかを比べることは適切なことと思われた。

彼らはどうしているのだろう?何をしているのだろう?彼らの将来に向けてのプランは何だろう?
ここに書くのは最近のハイチでの視察に基づく最新情報である。

1)Artiboniteの北部の県にあるPetite Riviereでは、CWSと長い間パートナーであったChurch World Service Chretien d'Haitiを含めたACT Allianceと連携するコミュニティのメンバーが食料支援のプログラムを続けていた。そのプログラムは、ハイチの地方部において情報と連帯とコミュニティ支援の重要な発信元である、いくつかの地元ラジオ局を拠点としていた。

しかし食料支援プログラムは縮小していた。当初、最高で8,000人最低でも3,000人との範囲と推測されるポルトープランスからの移住者のうちの一部だけしか、今Petite Riviere de l'Artiboniteに留まっていないからである。(キャッシュフォアワークのような)人道支援をより受けやすく、地震後も多くの家族が残っていた首都へ多くの人達は戻っていった。

2月にはコミュニティベースの場所で1日約500食が出されていたが、今そのプログラムはPetite Riviereでは週に2,3回に縮小されていた。

地元のラジオ局のひとつであるRadio Familyを最近再訪した日に、このプログラムに参加しているコミュニティのメンバーは、参加者の減少がこのプログラムの縮小の原因のひとつだと言った。他の理由としては、同じレベルでコミュニティの支援を維持するのがただただ難しかったということだった。特にPetite Riviere自体が住民のための十分な食料を確保するのに長い間苦しんでいる状態にあったからである。

「私達はここで大変多くの食料を必要としている。」と教師であり、ジャーナリストでもあるSama Odmarcは語った。

米作地帯であるこの地方は、アメリカ合衆国からの米の輸入が地元の農家を圧迫してきたということも含めた問題を何年もの間かかえていたと、Odmarcとその他の人達は説明した。農家は肥料のような基本的なものを買うための払込金を確保するという問題にも直面していた。払込金自体がとても犠牲の大きいものである。「収穫前に彼らはローンを返済しなければならない。米、コーンミール、サツマイモ、雑穀などに集中している地元の食料は栄養が十分でないので、収穫物を多様化することが必要とされるのだが、それに対する何らかの十分な対策が行われていない。」と元農学者であるNicolas Altidorは言った。

Petite Riviereで必要とされる事柄には肥料や妥当な払込金という形で農家を支援することがある。これらのことがなければ、切迫した状況が人々を地方からすでに超過密状態になっているポルトープランスへ追いやり続けるだろう。人々は本当はポルトープランスにいたいと思っているわけではない。しかしこの地方部とは違ってやはりそこではお金が得られるという感じがするのである、とAltidorは言った。

2)Jacmelの南部の沿岸部の市では、ACT AllianceのメンバーのDiakonie Katastrophenhilfeと地元のパートナーのメンバーはいくつかの避難キャンプを開設し運営していた。家を修繕したり建て直したりする注目すべき取り組みも進行中だった。注目度は低く小さい取り組みだが初期段階での尽力は、避難キャンプに移りたくないいわゆる連帯グループの支援をすることだった。

連帯グループのひとつはJacmelのWesleyan メソジスト教会の敷地の周辺に留まって地元のACTのパートナーから初期の支援を受けていた。2月にここを見た時は、防水シートやキャンバスはぼろぼろに裂けて破れているようにみえた。そしてそのエリアはもっと正式に組織された非難キャンプに比べたら少なく見積もっても無秩序に思われた。しかし最近見たところでは教会の敷地は前よりきちんとしていた。学校のテントでは授業が行われており、(地元Jacmelの有力者から寄付された)住民を雨風から守るちゃんとしたテントに使い古された以前のものが取り替えられていた。

しかしコミュニティの生活は不安定なままだった。

「この場所にいる人達の数は400人から150人へ減った。多くの人達は一人でやっていくほうがよいと決めたり、家に戻ったり他の場所へ移っていったりした」とこのコミュニティのメンバーのひとりであるFrancilaire Jeudiは私に語った。

「ここを維持していくのは難しかった。」とこの連帯グループの維持について彼は語った。理由のひとつとして、支援活動においてはよくあることだが”緊急時”の初期段階における食料支援は終了したことがいえる。(トロントを拠点としたGlobe and Mailの7月11日の報告でも、コミュニティは異なったグループにばらばらに分裂し、その分裂したグループの多くは連帯コミュニティの指導力に不満を持っていたとしている。これらの不満を持つ人々は結局は教会の敷地を離れ、今は他の場所の路上で暮らしている。)   
訳注:Globe and Mail カナダのニュースメディア

学校のクラスはより多くのコミュニティに広がっていて、教会の敷地に暮らしている連帯グループからも15人の子供達が授業に参加しているとJeudiは強調した。

長期間にわたる懸案事項は残っているとJeudiは言った。それには食料の心配や仕事の必要などが含まれている。連帯コミュニティの中でもキャッシュフォアワークの支援を受けている人達もいるが、そうでない人もいて、何とか生きていくのがやっとであった。

彼もまだ仕事を探している人のうちの一人である。「働かなくてはいけない。」とJeudiは言った。

3)ポルトープランスの隣のBelairで、私はMarie Sylsalveを探そうとした。彼女は息子のMcAnleyを地震の12日後に出産した。彼女は夫のAndreを見つけることができなかった。夫婦の家は崩れ、Sylsalveは夫が地震でなくなったと思っていた。彼女は壁が夫の上に倒れたのを見たのだ。私が1月の終わりに会った時、彼女は露天商として働きながらポルトープランスの隣のBelairの避難キャンプで暮らしていた。彼女は彼女自身と生まれたばかりの息子と三人の他の子供達とどうやっていくのが一番よいかを考えていた。

この避難キャンプはACT Allianceの人道的支援で支えられ、ブラジルの組織のViva Rioとのつながりがあったのだが、今は、ノルウェー教会の援助組織を含むポルトープランスのACTのメンバーの支援を受けていた。

最近訪ねた時、Sylsalveと他の人達が暮らしていたテントはなくなっていた。Viva RioのスタッフのBerdine Edmondは、おそらくSylsalveと彼女の子供達をも含む400家族は地震から約三ヶ月間4月10日まではここにいたと言った。

Viva Rioは子供達向けのプログラムのために場所を作り直す必要があるとそこにいた家族に言った。「ほとんどの人は以前住んでいたところに戻ったか他のキャンプへ移ったかした」とEdmondは言った。一時的な住民とACTの支援するNGOの間には協力や信頼の関係があったし、ここにいるのは一時的だいうことをいつもはっきりさせていたViva Rioとのよい関係は続いていた、と彼は言及した。しかしViva Rioと住民達のあいだに築かれた関係は一時的なものではなかったのだ。 例えば、一時的な住民の多くはViva Rioの小児科健康プログラムにまだ登録しており、そのなかにはMarie Sylsalveと彼女の息子のMcAnleyも含まれていた。


(以下省略)

原文サイト:reliefweb.int
posted by CODE at 09:31| 中・南アメリカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月13日

安全な家?サンマルクの仮設住宅とハリケーン

情報源:IFRC
日付:2010/8/13

「これで娘に何かいいものを買ってやれるよ。」Junior Joseph Marcは800グールド(20USドル)を数えて微笑みながら言った。彼はやがて自分が住めるようになる家を建てるという3日間の労働によってそのお金を稼いだのだ。

国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)は、ポルトープランスの北95kmのところにあるサンマルクの村に15棟の暫定的な避難住居の外部構造を完成させた。床張りはもうすぐ終わり、いつでも正当な所有者に引き渡される準備ができている。

土地は地震以降34家族の緊急宿泊施設を提供していた小さなNGOからIFRCが使えるように用意されたものだった。

Marcのような受益者と認められた人々は住居の建設に参加するよう誘われた。IFRCの避難住宅の専門家や地元の大工や職人達と一緒に働くことによって、参加者達は新しく役に立つ技術を身につける機会を得ることになる。

「私はこの家の仕事をするまでは建築のことは何も知らなかった。見習いとして働いて、経験を積んだ大工さんから多くのことを学ぶことができた。」とMarcは言った。

Marcの両親は地震の前に亡くなっていた。彼と弟は名付け親に面倒を見てもらっていたが、その名付け親は地震で亡くなってしまった。その時、Marcは電気技師になるために私立の技術専門学校であるサンマルク技術者協会で勉強していた。しかし名付け親の死によって彼は勉強をやめざるをえず、地元のNGOのもとで生活するというしばらくの間の居場所を見つけた。

「これが終わったら弟といとこは私と一緒にここに住むことになる。これは私が持つ初めての自分の家と呼べる家になる。」とMarcは言った。

Jean-Claude Theophileは大工で、IFRCのサンマルクでの仮設住宅建設の統括責任者である。

「我々は地中深く打ち込んだ頑丈な木製の柱を使っている。そして圧縮された土や粗石で基礎部分を埋める。」と彼は説明した。

「骨組みの結合部は風対策として強化した。そして屋根と主要構造をハリケーン用のストラップを使って動かないように結合する。ドアには二重のストラップを使う。その結合部はもっとも弱いところなので強化しなければならない。一時的な壁として使っていたプラスチックシートは、最終的にはより耐久性のある木製パネルに数週間のうちに取り替えられるだろう。」

IFRCの仮設住宅はすべてカテゴリー1のハリケーンの風に耐えるよう設計されている。しかしハリケーンの避難所としては設計されていない。ハイチにおいてここ最近数年のハリケーンによってもたらされる被害の多くは洪水や地すべりによるものである。ハリケーンの場合には、居住者は暫定住宅に避難し地元の防災専門家の出す指示に従うようアドバイスされている。

原文サイト:reliefweb.int
posted by CODE at 00:00| 中・南アメリカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月30日

ハイチの女性について

情報源:United Nations Development Fund For Woman(UNIFEM)
日付:2010/7/30

2010年1月の巨大な地震でハイチでは20万人以上が亡くなり、150万人が家を失ったとみられている。も
っとも被害を受けたのは、ポルトープランス、レオガン、プチゴアーヴとジャクメルで、インフラの広範囲にわたる崩壊と、避難所、電気、水道、交通、保健、治安などの基本的なサービスまでもが破壊されたという特徴を示していた。

女性は特にこのような災害で影響を受ける。貧しい家の状態のため死者のおよそ三分の二が女性であると、いくつかの指標が推定している。仕事、資本、そして経済力の大いなる損失は破壊的な地震に起因していた。自然災害の時、避難所や治安の不足から女性や少女には暴力、特に性的暴力の危険が増大する。現在、災害後6カ月たっても多くの人々がむさくるしくシートでできた一時的な避難所にいて、常に暴力の恐怖にさらされている。女性達は照明のない便所を共同で使わなくてはならず、公衆の面前で入浴し、家族との連絡が取れないのにもかかわらず見知らぬ人の隣で眠ることを強いられている。

正確な情報
女性はハイチの人口の52%を占め、家族の生存を確実にする大事な役割を果たしている。地震の前、政治的に不安定だった十年間においても、蔓延する貧困と男女不平等は女性の権利と安全に対して重い打撃を与えていた。家庭内暴力と性的暴力は高い率で国中に蔓延している。

‐2006年の国勢調査によると、三人に一人の女性が暴力を経験していた。
‐HIVとAIDSの率はこれらの事柄についての文化的なタブーと同様に高い。

ハイチの女性達は子供や他の扶養家族の面倒を見るという過度の負担をも負っている。
‐約45%の家庭で女性が家長となっている。
‐ハイチの非識字率はラテンアメリカやカリブ海地域においては一番高い。
‐UNDPの2009年人間開発報告によると、成人女性の識字率は64%という。

多くの女性達は公的ではない職場で雇われ、男性の半分以下の収入しか得られない。
‐UNDPの2009年人間開発報告によると、ハイチ女性の年収は626US$、それに対し男性は1,695US$
‐ハイチ女性は主に農家か小規模の実業家か市場の商店かの仕事をしている。
‐地震によって経済的活動が機能しなくなっている女性の小規模な農家や実業家に対する資本やその他の援助がもっとも重要である。
‐地震後の初期復興段階においてキャッシュフォアワークやフードフォアワークなどのようなプログラムによって約20万人の雇用が供され、そのうちの35%が女性であった。
‐もっと多くのことをしなければならない。急を要する必要性としては、経済活動を再開するための仕事の創出に取り組むということがある。特に家長となっている独身女性に焦点を当てる必要がある。

カリブ海諸島での厳格な性別役割や不平等はしばしば女性が政治的な意思決定に参加するのを阻止したり、性による暴力の危険性を増大させることになる。
‐ハイチの国会議員のうち女性は5%以下である。
‐公共の場での暴力は、公の生活に十分参加し貢献するという女性の能力を損なわせることになる。
‐多くの女性は政治的な活動に参加することは危険な行為だと思っている。

原文サイト:reliefweb.int
posted by CODE at 00:00| アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月12日

ハイチ人どうしの助け合い

日付:2010/7/12
情報源:Trocaire

1月の地震がハイチの国土を引き裂いた時、150万人の人々が家を失った。約90万人の多くの人々は首都のポルトープランスに留まって、利用可能な土地にあるキャンプでいまだに暮らしている。

しかし60万の人々は首都を離れた。地震直後に離れた人もいれば、路上やキャンプでの生活が耐えられなくなって数週間たってから動いた人もいる。6ヶ月たった今では、これらの人々の多くは国中に散らばったままになっている。

この緊急事態での顕著な特色は、ハイチの人々がお互いに労をいとわずに助け合うことである。60万人のほとんどはホストファミリーのところにいる。ホストファミリーの多くは被災者の親戚だが、驚くことに、そうではない場合も多い。困っている人を受け入れるというささやかな方法に対するホストファミリーの犠牲や善意は計り知れない。

Alexandre Victoirは地震から3週間たって生活がとても苦しくなったのでポルトープランスを去った。彼女の姉と姪は崩れた家の下になって亡くなり、お金も食べ物もなく、5人の子供達と一緒に瓦礫の間で眠り、隣人が分けてくれる食べ物なら何でも食べて暮らしていた。

「寝るところをどこか提供してくれる人が誰かいるからと、お隣さんのひとりが言ったのでFonds Parisienに来た。」と彼女は私達に言った。彼女の夫には町から二時間の郊外にあるその場所に遠い親戚がいた。そのいとこは自分自身が貧しさから抜け出せないでいるのに心から温かく彼らを歓迎してくれた。

Trocaireが訪ねた時、Alexandreは娘と一緒に庭の木陰に座っていた。「ここには私達が必要とするのに十分なだけの場所も食べ物もない。夜にはとてもくっついて寝なければならない。」と彼女は言った。Trocaireはこの地区で活動していて、住むところがなくなった人々や彼らを泊めている家族に食べ物を渡したり、子供達を学校にやったりしている。

Sr Nuria Merono Otoiは陽気な73歳のスペイン人である。彼女は水も電気もないコミュニティーに住んでいて、そこでTrocaireのパートナーの組織と一緒に働いている。地震の直後には、彼女は小さなチームを作り、ポルトープランスに車を出して基本的な初期援助を行った。「私達が持っていたすべては、多くの絆と助け合いの善意です。」と彼女は言った。

彼女はRicardo の話をした。彼は一人でポルトープランスの路上をさまよっているところを見つけられ、彼女達のところへ連れてこられた8歳の男の子だった。「地震が起きた時、Ricardoは外で遊んでいて家に帰ったら家族全員が亡くなっていたというのが、彼が話せたすべてだった。」と彼女は言った。

「私達は彼が住所や電話番号や親戚がどこに住んでいるか思い出すように繰り返し繰り返し手助けしようとした。でも彼はできなかった。」彼は私達と一緒に三ヶ月暮らした。そしてある日、彼は電話番号の一部を思い出した。その後数週間かけて少しずつ彼がもっと思い出すように私達は毎日彼をうながした。ほとんどの番号を思い出した時から私達は他の人たちにきいて回り始めた。

「ある朝、連携して仕事をしていた時、一人の女性がある電話番号に出たので私達は自分達のことを説明した。電話に出た女性はRicardoの兄の奥さんだった。私達が彼らを電話で互いに話させると、Ricardoはひどく興奮した。彼の兄は生きていたのだ。彼らはすぐFonds Parisienにやってきて、その日のうちに彼を連れて帰った。

Fonds Parisienはかなり貧しい地区でポルトープランスからあふれ出した人々を助けきれなかった。Trocaireはその地区のグループと一緒に活動して、ハイチと自分自身の生活の復興に貢献する職業を若者達が学ぶような訓練プログラムを立ち上げている。

この地震は大工やれんが職人、電気技師のようなたくさんの技術者の命を奪い、専門知識の断絶は多大なものとなる。若者を訓練することは、彼らが自力で身を立てることであり、町の外に避難している人々を助けることでもある。そこの超過密状態は大問題であり、生活の質は悪い。

Alexandre Victoirのような多くの人々にとって、町はけっして戻る気にさせるところではないだろう。「私は戻れない。姉と彼女の赤ちゃんはまだ瓦礫の下のままだ。今、私はずっとポルトープランスを憎らしく思っている。」と彼女は言った。


原文サイト:reliefweb.int


posted by CODE at 11:42| アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月04日

ハイチ:「私たちは再び災害の危険にさらされています」

情報源:UNOCHA(国連人道問題調整事務所)
日付:2010年6月4日

ハイチにおける嵐のシーズンの始まりを告げる風雨が既に、1月の地震で家を失った人々の住む一時しのぎのシェルターに被害をもたらしている。支援団体は、さらに悪い事態が起こりうると警告している。
「防水シートはテントよりは持ちこたえますが、最良の防水シートや最良のテントでも、雨季、ハリケーンシーズンをしのぐのに適した場所にはなりません」と、シェルターを監督する諸機関グループのコミュニケーション・オフィサー、Timo Lüge氏がIRIN(国連人道問題調整事務所・統合地域情報ネットワーク)に語った。「多くのキャンプは雨が降るごとに水に浸かっており、住環境は悲惨です。」

家を失った約150万人がキャンプで暮らしている。
支援団体はできるだけ早く、よりしっかりした持ち運び可能な高床式住宅を建てようとしている。計画された12万戸のうち1873戸が建てられ、9365人が居住可能となったが、12万戸を完成するには約1年かかるとLüge氏は言う。

資金と資材は手元にあるが、土地所有権の問題とガレキの除去がプロセスを妨げている。「土地の確保、必要な資材の購入と輸送、建設の完了に何ヶ月もかかるでしょう」と彼は言う。

「7000戸以上の仮設住宅に使われる資材と併せて、シェルター・クラスター(シェルター関連を扱う組織横断のグループ)メンバーの最大の課題は、仮設住宅建設に利用可能な土地がないことである」とハイチのUNOCHAが5月24日に発表した。

一方、Lüge氏によると、援助機関は木材、くぎ、ロープ、その他資材を配布したり、既存のシェルターを補強・防水する方法についてのクレオール語のポスターなどで助言を広めたりしている。

国際的な援助団体であるOxfamが28ヶ所で行った調査で、「過剰に混雑している」ことと水はけの悪さが、洪水と病気のリスクを高めていることがわかった。OCHAの発表では、洗浄・洗濯用の水が十分になく、衛生面が危険にさらされているとのことである。下痢の発生ケースは低いが、水不足による皮膚病は頻繁に起こっている。

大惨事
アメリカ海洋大気局は大西洋海盆に、「活発もしくは極めて活発」なハリケーンシーズンの到来を予告した。OCHAは6月1日の声明で、「地震以降、これほど多くの人がこれほど脆弱な状態におかれているなかで、今年の深刻なハリケーンは壊滅的なものとなりうる」と発表した。ハイチの市民保護局は学校などの建物で、地域のハリケーン避難所となりうる場所を特定してきた。

首都ポルトープランスのMaïs-Gaté 2地区にあるCaremagaキャンプに妻と子どもと暮らすJean-Ferdinand Jean-Jacques氏は、初期の嵐による被害は大きなものだったと言う。「こうしている間にもほとんどのテントは水に浸かり、すっかり腐っていきます。」

Caremagaキャンプの委員会メンバーであるHarold Desaugustes氏がIRINに語った。「ちゃんとしたテントを持たない人々の一時的なシェルターは風雨で既に壊れてしまいました。嵐が来れば、また大惨事に見舞われます」

彼は、自分の家族も含めて多くの人が、プラスチックシートと柱でできた簡易のシェルターに暮らしているという。「ときどき夜中に風雨で骨組みが崩れます。」風でプラスチックシートが吹き飛ばされたため、最近2枚目を買ったという。

Desaugustes氏の世帯は16人で、6歳未満の子どもが5人いる。「テントを持っている他のキャンプの住人によく、子どもたちをそこで寝かせてくれないかと頼んでいます。2〜3人をここへ、2〜3人をあちらへ、というふうに。」

原文URL:reliefweb.int

posted by CODE at 17:21| 中・南アメリカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。